梅雨
ふりかかるモンダイや取り巻く環境が、
何もせずに都合よく解決したり好転する事はほとんどなく、
それらに向き合い認める事によって、次第に少しずつ変わる体とココロが、
それら変わらぬ事の捉え方を変え、フシギな開放感にたどり着く事がある。
それは投げやり、捨て鉢といったスネた姿勢とはまったく違う。
そして自らが変わったことで、変わらぬ事を変える糸口が見付かる事がある。
まず始めるのは自分の中からなのかもしれない。
いろんな言葉をぐっと呑み込み、
「だいじょうぶだよ」と「よ」に力を入れて目の前にしゃがみこむヒトにおどけて言う。
ヒトを励ますなんて、ずいぶん年を重ねたもんだな。
今年の梅雨は明るくない。
それでも雨の合間に作業が進み、なんとか今月の予定が消化されていく。
草刈り、芝刈り、剪定、刈り込み。
切った枝や刈った草をダンプに積み込む。
それぞれの景色の中で、時間に追われ同じ動きが繰り返されていく。
背丈ほどのカヤを刈れば、まとめて短く折り曲げ、
麻縄で一抱えの束に縛り上げる。
こうして草や枝のゴミを束にする事を「まるける」と、言う。
(このあたりの方言なのか、我が社オリジナルか不明。)
現場によっては「まるける」方が運びやすく、積み込みやすい。
「まるける」には、紐の縛りかたや揃えかたにコツが要るのだ。
一応、私は「まるけのオハル」と言われている。オッホン。
でも、縄で縛る時はゴミと取っ組み合いをしているような体制なのだ。
暑い中での「まるける」作業はハーハーゼーゼーしてしまうが、
今年の夏は今のところ程よい汗で快適モード。
何十個と「まるけた」束が山になり、「やったぜい」と満足感に浸る。
日照不足で元気のない花木にケムシが群がる。
小型のケムシは手持ちのアースジェットを吹きかけるとポタポタ落ちてくる。
レンジャー隊みたいに糸にぶら下がって降りてくるのもいる。
流れ弾で罪のないカナブンがヒクヒクしていた。
ごめん。と、別の木に移してやる。まだ軍手にしがみつく力があるから大丈夫だ。
アリの巣コロリの周りでダンゴムシが集団でカラカラ乾いて倒れていた。
毒と知らずに美味そうな匂いに釣られたのかな。
刈り込みの最中、おっ、カブトムシだ、と嬉々と手を伸ばすと、
それは頭だけで動いていた。
ヒヨドリに腹を食べられて、頭だけで生きて何を考えるんだろう。
立派なツノで抵抗したのだろうか。
かろうじて残った前足が宙で何かを探していた。
地面には同じ姿のまま息耐えた仲間がいくつも落ちていた。
ムシ達だって、いろんな事が降りかかってくる。
何が起きたのかもわからないのだから、それはそれでヒトとは違うのかもな。
子供の事は女房に任せっきりだった父親が、25年目に始めてこう言った。
「世の中をこわがるな。」
息子は、うんうん、と頷いた。
ひと言に込められた数え切れない意味が、通訳なしで伝わった。
暗い梅雨、涼しい夏、生きていれば、いろんなことがあるのさ。