日々のこと/2002.6


夕庭

先月のある雨の日、免許の書き換えに行った。
今は写真持参ではないので、思いついた時に行けるからいいな。
徒歩4分の伊東署まで、車検の済んだボ(カ)ローラに乗って行く。
(地球と自分のために歩け!)
窓口で住所、氏名等の確認をしてから、その場で目の検査をする。
脳波もボケ度チェックもないのかい。
四角い覗き箱に両目を当てて検査開始。
「真ん中の丸を見てください。どちらの位置が開いていますか。」
えっ?丸?開いているの?どれ、何、丸ってどこ?
知的に冷静にパニクった。
真ん中にマリモのようなモノが見えるだけ。
係りのお姉さんにお願いして、作戦タイムを頂き、
椅子に座って暫しの間、瞑想。
眼鏡を作るのかぁ、出費じゃんか。
似合わないしなぁ、めんドイなぁ。
視力には自信があったのになぁ、ショックだなぁ。
タイムオーバーで呼ばれてラストチャンスの再検査。
お、さっきのマリモがなんとなく割れている。
よく見えない所は勘で行こう。
右です、上です、右かな、あは、下かな。
「合格です。」
今日は勘が冴えていて良かった、良かった。
半日、パソの文字を追っていたのがいけなかったな。
今あるほとんどの「便利」が身体に良くないな。

ともかく5年のゴールドカードをもらえたから、
あと5年間は眼鏡を作らなくてもいいんだ。わーい。

そういえば、最近カレンダーの数字が見にくかったし、
パソの画面も小さい字の並ぶものは見ていて頭が痛くなる。
イチゴジャムをブルーベリージャムに代えなくちゃな。
身体のあちこちでガタがきているっつーことだ。
と、気がつけば、6月に突入していた。ふうっ。

伊豆高原の「うららかさん」がHPで紹介していた丸山健二の「夕庭」という本を買った。
ヤフーブックで注文したら数日後、「お取り寄せできましぇん」というメールが入った。
なんでやねん。天下のヤフーが。
仕方なく近所の本屋までヨッコイセと出向き、注文した。
5日目に入荷の連絡が来た。
近所の本屋がヤフーに勝った。
丸山健二氏の小説は読んだ事がないが、
「ペンを鋏に持ち替え独力で造り上げた”至極の楽園”」
というだけで、ぞくぞく来た。
350坪の庭園に生きる花木の写真とエッセイが、
ぎっしり詰まっているだけではなく、
写真のひとつひとつのコメントがたまらない。

折りしも、中伊豆の別荘の350坪の庭を手入れしたばかり。
広さは同じだ。
地面を覆う草はほとんど刈り、伸び放題の植木の枝を詰め、透かし、
ひとまわり小さくなった植木がそれぞれの姿を現し、
庭はその分広くなり、陽光が射す隙間ができた。
草を刈る時、「残す」事を考える。
少しだけ、考える。
そればかり考えていたら、仕事が進まない。
カヤやイタドリの間で可憐な花を付ける草もあるだろう。
でも一緒に刈ってしまう。植木屋だから。
切り落とした枝の山が、
風で運ばれた種から芽を出した草花をつぶしてしまう。
でも枝を落とす場所は考えない。
考えていたら、仕事が進まない。

「ずっとそこに立っていたい庭」が私の目指す庭。
「良い庭というのは、
そこに長時間佇んでいたいという欲求に駆られるかどうかで見分けられる。」
と、丸山氏は書いていた。
同じ想いで嬉しかった。(表現力の差は大。)
そして、ぶるっと来たフレーズ。
「私が追い求めてやまない庭というのは、私がめざしてやまない小説と一緒で
現実と想像、地味と派手、抑制と浮揚、安らぎとときめき、混乱と秩序、野生種と園芸種、
そうしたテーマのちょうど境目にある、紙のように薄い、ぎりぎりのはざまに存在している。」
そして、そして、苔のはえた切り株の写真が気に入った。
添えられた言葉が響いた。
(この世を去るに際し、シラカバは言った。「切り株になっても影響力を持ってやる」)
かあ〜っ、たまらんっ。

植木屋が年に数回(または数年に一回)だけ鋏を入れる事で、
ずっと佇んでいたい空間が造れるとは思わないが、
そこに暮らす人又は通う人の、庭に対する想いが加味されれば、
そのサポートは充分にできると思う。
今回の仕事はそれらに近かったような気がして、
剪定ゴミの量もケムシのかゆさも、ふふんと、鼻で笑えてしまった。
「このままでは木が可哀想だから手入れをしたい」との、
お施主さんの言葉を、「夕庭」のページをめくりながら、思い出していた。

前と・・・ 後。