日々のこと/無題


伊東公園をぐるりと裏側に周ると、湯川神社へ上がる石段が始まる。
その手前に軽トラをつけて、掃除道具を担いで少し上がった。
天神の森の片隅に、祖父の胸像がある。
年に数回、年老いた母や伯母が積もる落ち葉や枯れ枝を掃く。
箒で掃く事などたいした力はいらないものだと、思っていたが、
筋力の弱ってきた者にはかなりの重労働らしい。
もう、これからは私がやる。
と、濡れた落ち葉を集めながら自分の中で決めた。

私のおじいちゃん。母方の祖父。
昭和57年、97才で亡くなるまで、ずっと同じ家で暮らしていた。
温厚で教育熱心で皆から慕われていた。

伊東で小学校の先生をし、訳あって伊東を離れ東京へ出て文京区のある小学校で校長をした。退職後、森永製菓に勤務し、キャラメルの空き箱工作を考え出した。
その後再び伊東に戻り、末娘(私の母)の家族と暮らした。
熱心な仏教家で、毎朝仏壇の前でお経を唱え、木魚を叩いた。まだ舌の回らぬ私はマイ木魚を与えられ、一緒にポクポクやっていた。
菩提寺である松月院というお寺で日曜学校を始めた。当時、学習塾などなかった。習字を教え、お釈迦さまのお話をし、皆で本を読んで半日過ごした。まだ幼稚園にも行っていない私は、どこへ行くのもおじいちゃんと一緒だった。
おじいちゃんの父親は生前、湯川神社の神主だった。おじいちゃんも神主の資格があり、この湯川神社へもよく一緒に行った。長い階段を上がり、からんからんと鈴を降り、一緒に手を合わせるのが嬉しかった。
おじいちゃんは私が小学校へ上がるまで私の育児日記を記してくれた。
「子供は決して叱ってはいけない」と、いつも言っていた。
成長するにつれ、だんだんおじいちゃんの後をついて行かなくはなったが、
小さな家で襖一枚向こうの部屋から、いつも見ていてくれた。

物欲の少ない人だった。
物やお金の話はほとんど無かった。
そんなものはどうでも良いことのように、生きていた。
そして、多くの本と必要なだけの身の回り品以外は何も持っていなかった。
「財産は知識だよ」と、言っていた。
亡くなる直前まで酒を飲み、タバコを吸った。
一日の量を決めて、楽しんでいた。
高校生の私にタバコを吸わせてくれたことがある。
ヨガの体操、断食、寒中水泳、タワシ健康法、いろんなことをした。
ライオンズクラブの奉仕の精神を皆に広めた。
「ほどほどに」といつも言っていた。

健康大学という老人サークルを作った。
90才になっても、おばあちゃんたちから、モテた。
誰にでも優しく、親身になって相談に乗っていた。
当時、あまり冴えない風貌の青年がよく来ていた。
おじいちゃんの話を聞くだけ聞いては帰って行く。
その青年がおじいちゃんの胸像を創った。すごい、と思った。
今、活躍中の彫刻家、重岡健治氏だった。
健康大学の方々が、神社の一角に石を組み木を植え、
健康道頌徳碑として建立してくださった。
「わしの墓ができた」と、笑っていた。
その6年後、100才まで生きると、言っていたのに、うそをついた。

年とともにもう一度おじいちゃんに会いたい気持ちが高まる。
今の私の泣き顔、笑い顔を見て、何て言うのか、知りたい。

最後にブロワーで仕上げをしながら、
「ほどほどに、だな」と、思った。